小山冨士夫と加藤陶九郎の関係は? 「永仁の壺」 村松友視著 を読む [美術]
村松友視氏が「永仁の壺事件」に関して書いた本です。
永仁の壺に関してはみなさん御存じだと思いますが、簡単に言うと加藤唐九郎氏が作った壺を文部技官であった小山冨士夫氏が鎌倉時代の古陶として重要文化財に認定しましたが、さまざまな疑惑の声が上がり最終的には唐九郎氏が「自分が作った」と認めました。当然、重要文化財の指定は解除され、認定した小山冨士夫氏は文部技官を退官することになります。
その後、唐九郎氏は重要文化財にまで認定されたほどの永仁の壺を作った男として有名になり、何故か4年後の昭和40年(1965年)には毎日芸術賞を受賞するなど名陶工としての道を歩んだようです。ちなみにマンガの「美味しんぼ」の唐山陶人は唐九郎氏がモデルと思われます。
一方、小山冨士夫氏は文部技官を退官後、作陶の道に入り、著作も多かったようです。そのほかにも出光美術館の顧問になったり、東洋陶磁学会を設立したりすることになります。
村松氏はこの本で二人の事件の経緯を綿密に調査して事件の本質に迫ろうとしています。
その中で興味を引いた部分を紹介します。
私も永仁の壺の写真を見た限りでは、「どうしてこれが重要文化財?」という印象を持ちました。それまでの鎌倉期の古瀬戸を見たことがある人にとっては違和感のある壺だと思います。そういう意味で、陶九郎氏のいう「自信がなかったから銘を入れなかった」という発言は頷けるものです。
これだけであれば、小山技官に古陶磁を見る目がなかっただけということになりますが、そんな単純な話ではないと思います。
この対談には、途中から秦秀雄氏が乱入してきます。秦氏は井伏鱒二の「珍品堂主人」のモデルとなったり、北大路魯山人と星ヶ岡茶寮を経営してその後ケンカ別れした人で、いわゆる「目利き」として知られていました。
(鑑定団の中島先生も駆け出しの頃、秦氏に一杯くわされたと本に書いてあります)
ここでいう一派というのは日本陶磁協会のことで、小山氏も唐九郎氏も日本陶磁協会の仲間でした。日本陶磁協会は社団法人で、唐九郎氏のような陶工や陶磁器の美術商の他に小山氏のように国の文部技官が入っていました。これに関しては、このHPに国会での討論の内容が紹介されています。
美術品で真贋事件で、「国会でも議論された」と形容されるのは佐野乾山事件が有名ですが、1年前に起こったこの永仁の壺事件でも同じ高津議員による追求があったのです。この辺りもよく調べなければ分からない所ですね。
さて、この村松氏の本です。結論は書きませんが、上記のHPの内容や国会での答弁を読むとまだまだ思い切りが足りないような印象を受けますが、真贋事件に興味のある方にはお勧めです。
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む
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http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-1
永仁の壺に関してはみなさん御存じだと思いますが、簡単に言うと加藤唐九郎氏が作った壺を文部技官であった小山冨士夫氏が鎌倉時代の古陶として重要文化財に認定しましたが、さまざまな疑惑の声が上がり最終的には唐九郎氏が「自分が作った」と認めました。当然、重要文化財の指定は解除され、認定した小山冨士夫氏は文部技官を退官することになります。
その後、唐九郎氏は重要文化財にまで認定されたほどの永仁の壺を作った男として有名になり、何故か4年後の昭和40年(1965年)には毎日芸術賞を受賞するなど名陶工としての道を歩んだようです。ちなみにマンガの「美味しんぼ」の唐山陶人は唐九郎氏がモデルと思われます。
一方、小山冨士夫氏は文部技官を退官後、作陶の道に入り、著作も多かったようです。そのほかにも出光美術館の顧問になったり、東洋陶磁学会を設立したりすることになります。
村松氏はこの本で二人の事件の経緯を綿密に調査して事件の本質に迫ろうとしています。
その中で興味を引いた部分を紹介します。
●「芸術新潮」1960年12月号での青山二郎氏との対談
唐九郎 結局、僕はこう思うんだ。いま問題になっているものは、僕としてできに自信がなかったから銘を入れなかった。もし、銘を入れて、ちゃんと売れば、五倍も十倍にも売れたわけだよ。それが自信がないから、銘を入れなかった。入れなかったから古いものと思われた。技術が下手でも、それが古いものなら値打ちがあるという認識が日本には根強くある・・・これは根強いのだよ。
私も永仁の壺の写真を見た限りでは、「どうしてこれが重要文化財?」という印象を持ちました。それまでの鎌倉期の古瀬戸を見たことがある人にとっては違和感のある壺だと思います。そういう意味で、陶九郎氏のいう「自信がなかったから銘を入れなかった」という発言は頷けるものです。
これだけであれば、小山技官に古陶磁を見る目がなかっただけということになりますが、そんな単純な話ではないと思います。
この対談には、途中から秦秀雄氏が乱入してきます。秦氏は井伏鱒二の「珍品堂主人」のモデルとなったり、北大路魯山人と星ヶ岡茶寮を経営してその後ケンカ別れした人で、いわゆる「目利き」として知られていました。
(鑑定団の中島先生も駆け出しの頃、秦氏に一杯くわされたと本に書いてあります)
秦 あなた、小山とはずいぶんつき合ったの。
唐九郎 仲はいい。
秦 小山、すっかりほおかむりしているようだが、どうなんだネ。
青山 いや、あれ、かわいそうだヨ。
秦 それはかわいそうサ。新聞や雑誌に出ている小山の写真見ても、僕は切ないと思うくらいだ。
青山 唐九郎どころじゃないよ。かわいそうなことは。
唐九郎 それは僕はのんきじゃけどねネ。小山氏はネ...。
青山 だけど、あの空気がいけない。文化財委員会といういやな空気が。それから脱けたらいいのだよ、小山は。
唐九郎 小山氏はわれわれと一派なんじゃ。一派なんだけども、あの中じゃ、どうも動けないのじゃ。
ここでいう一派というのは日本陶磁協会のことで、小山氏も唐九郎氏も日本陶磁協会の仲間でした。日本陶磁協会は社団法人で、唐九郎氏のような陶工や陶磁器の美術商の他に小山氏のように国の文部技官が入っていました。これに関しては、このHPに国会での討論の内容が紹介されています。
美術品で真贋事件で、「国会でも議論された」と形容されるのは佐野乾山事件が有名ですが、1年前に起こったこの永仁の壺事件でも同じ高津議員による追求があったのです。この辺りもよく調べなければ分からない所ですね。
さて、この村松氏の本です。結論は書きませんが、上記のHPの内容や国会での答弁を読むとまだまだ思い切りが足りないような印象を受けますが、真贋事件に興味のある方にはお勧めです。
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む
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このブログの目次です。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-1
2010-10-02 21:47
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美味しんぼはよく読んでいましたが、唐山陶人のモデルが誰か・・・なんて知りませんでした(厳密には知ろうとしませんでした)。
知らない世界を見せていただいて、本当にありがとうございます。
by mo_co (2010-10-05 21:50)
mo_co さん
いつもありがとうございます。
私は陶人が初めて登場した時に、「あれ、唐九郎じゃん!」と思いましたよ。(笑)
by Simple (2010-10-05 22:09)