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佐野乾山の真実! 尾形光琳二代目 乾山 細野耕三著 を読む [尾形乾山]

kenzanhyoushi.JPG尾形光琳二代目 乾山



細野耕三氏の「尾形光琳二代目 乾山」の紹介です。この本も20年前の本ですが、とても貴重な本だと思います。

細野氏はTVドラマになった「三匹の侍」などの作品で有名な作家ですが、陶磁器の研究家としても知られており、「桃花紅を追う」などの著書があります。その細野氏が現在も贋作と言われている「佐野乾山」を肯定的に考えて、乾山の陶工人生を描いた作品です。




その細野氏ですが、佐野乾山に関しては、漠然と「贋作」として考えていたそうです。
この作品を書き始める前は「佐野乾山」といえば偽物という漠然とした印象しか持っていなかった。
私は江戸中期の伊万里色絵磁器のような技術的に完成度の高い作品が好きだから、和陶土ものが主流の茶道具に余り興味がなかった。
昭和37年に英国の陶芸家で八代乾山を襲名していたバーナード・リーチ氏が「佐野乾山」十数点を見て激賞した。これがきっかけになって佐野乾山真贋論争が起こった。(実際にはリーチ氏は七代乾山を襲名:引用者注)(中略)
贋作説は何となく一般に定着してしまった。

昭和37年頃に盛り上がった「佐野乾山」の真贋論争ですが、加熱していたマスコミ騒動も次第に熱も冷めて、それに関する報道のなくなっていきました。そして、その真贋論争の決着がつくこともなく、何となく贋作だろうとの雰囲気のままとなっていました。そして、その後学問的に研究を進める人もほとんどなく、一般的には「何となくグレー」という雰囲気ですが、業界的には完全に贋作の扱いとなっていました。

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それから28年、激しい真贋論争があったことさえ極一部の人を除いて忘れられてしまった。だが、この一般の定説化にもかかわらず、新発見の古文書や資料によって学問的に佐野乾山を研究していた人々がいた。
住友慎一氏、国井秀策氏と石塚青我氏である。この三氏は極めて専門的な著書を上梓されていた。佐野乾山を解明する上で十分な科学的に裏付けできる内容のものだった。
私はこれら五冊の本を読んで、このような地味な研究を三十年近くも、私と同じ年代のお三方が続けてこられたその永続的な情熱に畏敬の念を覚えた。同時にそれらの著書の内容から浮かんでくる尾形乾山深省の人間像に感銘を受けた。特に佐野滞在の一年四カ月の日記は涙するほどの感動を私に与えた。

住友氏などの研究の結果は、古美術関連の雑誌「目の眼」1985年6月号で「あの「佐野乾山」を洗う」という特集で有名になり、これをきっかとして、それ以降、精力的に研究成果を出版を続けていました。これらの研究のおかげで、細野氏や貿易陶磁の大家である三杉隆敏や美術評論家の瀬木慎一氏など多くの人が佐野乾山に対する見方を変えたようです。しかし、それからさらに25年以上経ちましたが、陶磁業界での評価に変化は無いように思えます。

過去の経緯を調べてみると、佐野乾山は学術的に議論を尽くして贋作とされたわけではなく、業界の有力団体の力でグレーの方向に持っていかれた印象がありますので、住友氏が著作などで学術的に反論しても効果が無かったのでしょうね。

さて、その乾山ですが、その生涯に関してはまだ分かっていないことが多いようです。乾山研究の第一人者である竹内順一氏は「乾山焼研究随想」として、現在まで残っている重要課題を上げています。(KENZAN 幽邃と風雅の世界 2004年図録より)
  1. 乾山は、なぜ「焼物商売」を始めたか
  2. 乾山焼の典型作品は何か
  3. 乾山はどこまで生産に関与したか
  4. 「乾山焼」の意味は
  5. なぜ、鳴滝窯を廃窯し移転したか
  6. 兄弟合作の制作年代論議はその後活発になったか
  7. 二条丁子屋時代の終焉はいつか
  8. 二町丁子屋時代の典型作品は何か
  9. 土器皿をどうみるか
  10. 鳴滝窯発掘調査の行方は
え~っ!! そんなことも分かっていないの? と思うのは私だけでしょうか。

さて、この本に書かれている乾山について書きます。
京都の有名ブランド呉服店の御曹司であった乾山ですが、37歳の時に京都の鳴滝で窯を開いて陶工としての道を歩み始めます。しかし、上記竹内氏の重要課題にあるように「乾山は、なぜ「焼物商売」を始めたか」に関してはよく分かっていません。一般には、近くに野々村仁清の御室焼窯があったので刺激をうけたのでは? と言われていますが、その動機づけが弱いと考えられます。現代で考えると、自分の家のそばに陶芸教室があればみんな陶芸家になるのか? という素朴な疑問ですね。

そして、その鳴滝窯では、兄の光琳に絵付をしてもらった数々の芸術性の高い名品が生まれることとなります。しかし、その鳴滝窯も13年後の乾山50歳の時に廃窯して、京都市内の二条丁子屋に引っ越します。これも上にあるように「なぜ、鳴滝窯を廃窯し移転したか」については、まだよく分かっていません。さらに乾山が佐野を訪れたことに関しては、さらに分かっていないことが多く、戦前までは佐野に来たこと自体も認められていなかったようです。

「佐野手控帖」の一部
tebikae.JPG
そのような状況でその空白を埋める資料が、佐野乾山真贋事件で問題となった佐野での「手控帖」です。そこには、京都から江戸に行った経緯、江戸から佐野に行った経緯や、佐野での日々の生活、作陶に関することがらがこまごまと書かれていました。それを小説にして書いたものが、この細野氏の本です。

この本では、鳴滝窯は乾山の作品へのこだわりによって経営破たんしたことによって廃窯になり、 その後二条丁子屋で焼物商売をはじめたことが書かれています。その丁子屋時代に、朝廷の実力者である二條綱平卿から(光琳の絵付け+乾山)の庭焼をやりたいとの話が出ます。乾山は非常に積極的に動き、数千両の費用をかけて窯の造営に着手しました。(仁寿窯)
しかし光琳に対して幕府側の京都所司代から、朝廷が経済的に力をつけるような話はけしからん、という理由で止めるようにとの圧力がかかります。朝廷と幕府の板挟みになった光琳は、その事を乾山に話すことができずに仁寿窯の開窯を引き延ばします。そのため、病気のため酒を禁じられていた光琳の酒量が増え、やがてそれが原因で亡くなります。光琳の死去によって仁寿窯の話はご破算となり、乾山は二条家への出入りを禁止されます。

その後、乾山は失意のうちに二条丁子屋で「京みやげ 焼物しょうばい」に専念して、自身や光琳の借金返済することに力をそそぎます。この時代は、「京みやげ」ですのでそれほど高価ではありませんが、皿や向付けなど少し高級な日用雑器を作っていたようです。

そして、享保16年(1731年)12月9日、69歳の乾山は東山天皇の第三皇子である公寛親王が上野寛永寺の門跡として迎えられる一行に随行する形で江戸に出発します。

江戸では、以前兄の光琳がお世話になった木場の大富豪である冬木屋の家の居候となります。冬木屋としては、光琳の弟で京では有名な陶工である乾山を客人とし、商売相手に紹介することで江戸での商売に利用しようと考えていたようです。乾山は、そのような江戸の経済重視の考えになじむことができず、しかも当てにしていた入谷窯も素焼きしか焼けないような貧弱な窯であったため、創作意欲も湧かなかったようです。

そのような生活を6年続けていましたが、佐野の鋳物代官である大川顕道に以前から依頼されていた乾山を佐野に迎えたいという話を冬木屋は断りきれず、乾山は佐野に旅立つこととなりました。この時、乾山は75歳の高齢です。当時の佐野は江戸と日光東照宮を結ぶ中間地点であり、井伊藩の飛び領管轄地として水運を利用した江戸への物資の流通の拠点として非常に栄えていました。当時の佐野は、松村広休が佐野代官、大川顕道が天明鋳物代官、須藤杜川の本家が船奉行をつとめており、それらの人物が佐野での乾山の生活や作陶を援助していました。

しかし、京都に比べると当時の大都会であった江戸でさえ、地の果てに来たと思っていた乾山にとって更に北の佐野へ行くことは苦痛以外の何ものでもありませんでした。手控え帖では、佐野に立つ時に次のように嘆いています。

「佐野乾山の花入れ」
shanaire.JPG江戸に下れば、下野(佐野)へ、そこにまいれば、その先へと、末は、えぞの国までゆきつくやの旅を重ねて年老いてゆくのは、いかなる星のもとに生まれたのか

しかし、実際に佐野に来てみると、そこには江戸にはなかった美しい自然と、江戸以上に教養あふれる人たちとの楽しい交流があり、京の雅があふれる乾山にとって至福の世界があったでした。それを乾山は次にように記しています。

ありがたき哉 佐野の山里
うつくしき哉 佐野の山里


上に書いたように、それまでの乾山の陶工人生は決して恵まれたものではありませんでした。芸術性の追求と生活のための商売の狭間で葛藤していたような人生のように見えます。しかし、その乾山が75歳にして訪れた佐野の地では、佐野に招いてくれた人たちの援助によって、生活の事を考える必要もなく自分が作りたいと思った絵や書を存分に作品の上に描くことができたのだと思います。これまでの約40年にわたる陶工人生の集大成を佐野で開花させることができたのではないでしょうか?

また、このような状況を考えると、「なぜ、江戸期の乾山作品が少ないのか?」、「なぜ、絵画の制作が佐野から江戸に帰った後に集中しているのか?」の答えも出てくるように思えます。
私の意見は、

  • 江戸では、乾山は入谷窯の状況と経済的な理由から乾山が満足のできる作陶ができなかった。
  • 佐野滞在中は佐野の支援者から十分な経済的な支援と作陶環境を与えられて多数の作品を手掛けることができ、これまで以上に創作意欲が高まった。
  • しかし、江戸に戻るとまた自分の満足のいく作陶ができる状況ではなかった。
  • そのため、自分一人で作ることができる絵画にその創作意欲、自分の思いを注ぎ込んだ。
この本では、佐野の須藤杜川や大川顕道などの援助者たちから沢山の作陶を依頼されており、合計4か所の楽焼用の窯を作って対応していたことが書かれています。佐野乾山の発見の数が多い点もこれを読むと納得ができます。また、乾山は登り窯による本焼をやりたかったようですが、時間と労力がかかるため断念したようです。ちなみに現在、陶磁業界で真正の「佐野乾山」と認められている数点の中には、楽焼ではなく本焼の作品があります。これはどこの窯で作ったものでしょうね?

しかし、この本では乾山の弟子が乾山の真似をした作品を作り、それを見た乾山が激怒して割ってしまったとか、乾山が佐野に滞在中に佐野で作った乾山焼きの偽物の話が乾山の耳に入ったというような話も書いてあり、現在私たちが見ることができる佐野乾山にはそれらの多くの贋作・倣作が混在していることを前提で見る必要があります。

最後にブログで紹介した落合氏の「ドキュメント真贋」の中にある、この本に関しての記載を紹介します。
佐野乾山の汚名が晴れたきっかけは、昭和60年代に入って医師住友慎一、弁護士国井秀策の研究と著作が出たからである。作家で古陶磁研究家の細野耕三はそれを読んで感動し、平成2年6月に「二代光琳 乾山」を著した。(中略)和陶の権威者である満岡忠成も「あのときは反対したが、今になって反省している」趣旨の感想を細野に寄せている。(中略)
『芸術新潮』によれば、大手業者筋は今(平成3年)でも「あれは自分たちは認めません。扱いません」と言っている。確かに絵付けの悪い佐野乾山は、全盛期の鳴滝乾山などの名品と同格に扱う商品ではあるまい。だが、大手業者が佐野乾山を認めないというのはそういう意味ではないく、乾山の作品として認めないということである。そればかりか、端的にいえば江戸期の古陶磁とも認めない。要するに「近年の摸作扱い」のままであり、「問題品扱い」のまま30年前と少しも変わっていない。業界の大手筋は、今でも傘下の中小業者に対して「触ってはいけない」「関わり合いになるな」という秘密通達を発しているようだ。

どうも佐野乾山に関しては、学術的にどうのというレベルを超えた力が働いているようですね。真贋事件に対する私のスタンスは、「贋作を真作と見誤ることはしょうがないが、真作を贋作と見誤ることは絶対にしたくない」です。その理由は、美術品の場合、贋作と判定された場合のリカバリーが非常に難しいからです。 したがって、私の書いているものは真作寄りの見方が強いと思いますので、その辺りは割引いて読んでください。

いずれにしても、この本は乾山に興味のある方には必読の書だと思います。

【佐野乾山に関しては、K's HomePageを参考にしています。(http://kaysan.net/sano/sanokenzan.htm)】

"Sano Kenzan Scandal ”

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真贋事件に興味のある方は、
・「佐野乾山事件とバーナード・リーチ」 豊口真衣子著 を読む
・藤田玲司と三田村館長が認めた「佐野乾山」、ギャラリーフェイク 006 「タブーの佐野乾山」 細野不二彦著 を読む
・乾山と言えば色絵陶器です! 「国際写真情報 」 を見る
・佐野乾山は美しい! 骨董のある風景 青柳瑞穂著 青柳 いずみこ 編 を読む
・夭折の画家 佐伯祐三と妻・米子
・マスコミの報道は疑ってかかれ! 「ドキュメント真贋」
落合先生の佐野乾山関連の情報も
・乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

このブログの目次です。
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光琳乾山兄弟秘話 (RIBUN BOOKS)光琳・乾山関係文書集成〈上巻〉光琳・乾山関係文書集成〈下巻〉尾形乾山手控集成―下野佐野滞留期記録 (光琳・乾山関係文書集成)



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コメント 9

Simple

TBM さん

いつもNice! ありがとうございます。
「調律師、至高の音をつくる」、面白そうですね。
私も読んでみます。
by Simple (2011-02-20 09:11) 

Simple

ChinchikoPapa さん

Nice! ありがとうございます。

>真贋論争といいますと、すぐにエキセントリックな論争になりがちですが

おっしゃる通りです。真贋事件を仕掛ける方は、新聞やTVなどのマスコミを使って事件をあおりますからね。冷静で科学的な検証が重要だと思います。
by Simple (2011-02-20 21:59) 

Simple

RONRON さん

Nice! ありがとうございます。
下川さんのTTP(徹底的にパクる)は、吉越浩一郎さんも書いていましたね。
by Simple (2011-02-20 22:09) 

Simple

mo_co さん

Nice! ありがとうございます。
まだまだ寒いですから体調管理には注意が必要ですね。

by Simple (2011-02-23 22:22) 

Simple

ぼんぼちぼちぼち さん

Nice! ありがとうございます。
確かにお風呂に入ると、良い発想がでてきますよね。
by Simple (2011-02-24 23:46) 

文

父の名前で検索をかけたら、
こちらに辿り着きました。
お褒め頂き恐縮です。

by 文 (2014-04-11 22:49) 

Simple

文 さん

コメントありがとうございます。
細野耕三さんの親族の方ですか! 読んで頂きありがとうございます。
一般の人が佐野乾山の手控帖を読むことは難しいと思いますので、この本を読むのが一番いいと思っています。
是非、Kindle版でもでのよいので再販して欲しいですね。
by Simple (2014-04-12 09:02) 

文

一人娘です、まあ、私が小学生の時に離別しておりますが。
私の名前は、幸田露伴の娘さんが
幸田文さんということに憧れて父がつけたそうです。
私自身、父の本は1冊しか持って居なくてそれは、
刀ものといわれるほうの本ですが、
晩年は、陶器に傾倒していたようです。
今は、アマゾンや他のネットでも父の本を
入手できる時代になりましたね、
図書館の蔵書にもあり、感動しました。

by 文 (2014-04-12 12:45) 

Simple

文 さん

細野さんの娘さんですか。それはそれは。
細野さんは、陶磁器の世界では、江戸時代の色絵陶磁の有数のコレクターとして有名でしたね。また、清朝の幻の秘宝と言われていた「桃花紅」の所有者と伺っています。
今後ともよろしくお願いします。
by Simple (2014-04-12 15:39) 

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