「開運! 何でも鑑定団」の鑑定士の本「ニセモノ師たち」 中島誠之助著 を読む [美術]
ご存じ、人気のTV番組「開運! 何でも鑑定団」でおなじみの中島誠之助先生の本です。
私は「何でも鑑定団」が大好きで番組が始まった当初から楽しみに見ていました。この番組は、1994年から続いている長寿番組で、もう17年もやっているのですね。
この番組で紹介されるまでは、骨董品はともかく、古いおもちゃに高価な値が付いたり、箱があると値段が大きく違うなどとはほとんどの人が思っていなかったので、大げさに言うと日本人の意識を大きく変えた番組と言えると思います。また、古陶磁や掛け軸など古い家には必ずあるようなものにとんでもない値段が付いたりすることがあるとわかり、若い世代になって本当であれば捨てられていたようなものも、一応「もしかしてお宝では?」と考えるようになり、安易に捨てなくなったという意味でも日本の文化に大きな貢献をしていると思います。(いや、本当にマジでそう思っています)
また、司会の島田紳助さんと石坂浩二さんのコンビもベストコンビですね。特に紳助さんの鑑定士への鋭い突っ込みはさすがで、鑑定士の凄さとある意味でのいかがわしさを見事に引き出しています。(「行列のできる・・・」では弁護士たちのいい加減さを十分に引きだしていますね(^^))
それにしても、この番組は17年も続いているということは、紳助さんから「日本一やる気のないアシスタント」と言われていた二十歳だった吉田真由子さんは、●●歳ですか...。(笑)
長寿番組だけあって、鑑定士の横山大観の弟子である渡邉包夫さん、日本のインディ―ジョーンズ安岡路洋さん、前回紹介した瀬木慎一さん、刀剣の鑑定士である柴田光男さんなどが亡くなられました。私は、渡邉包夫さんが贋作の絵に対しての「いけません!」と いうコメントが好きでした。また、渡邉包夫さんの弟子である書画鑑定の石井久吾さんのファンでした。最初の頃だったと思いますが、鑑定に出された絵画に対して、以下のようなやりとりがありました。
石井 「残念ながら贋作ですね。」
紳助 「本当? 命掛けられますか?」
石井 「はい、私ごときの命でよければ。」
石井さんは普段はニコニコしていて物静かな人ですが、何とも腹の据わった人だと感動してそれ以来ファンになりました。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、「いい仕事してますね」で有名な中島先生の本です。中島先生は、東京都港区青山に生まれ、子供のころに両親を亡くしたため、養父に育てられたそうです。この養父は茶道具で有名な「水戸幸」の番頭でこの業界では有名な目利きだったそうです。
その養父に子供の頃から鍛えられて、1960年代から骨董商として独立したようです。そして、1976年に南青山の「骨董通り」に古伊万里の店「からくさ」を開き、古伊万里の世界で有名となります。ちなみに「骨董通り」は中島先生が名付け親だそうです。
私の会社の本社が骨董通りに近かったため、ときどき覗いて見た事がありますが、いつも閉まっていました。「からくさ」は、2000年に閉店したそうです。ちなみに中島先生の娘さんである由美さんは、陶磁研究家で戸栗美術館の評議員だそうです。
茶道具から古伊万里、中国陶磁器まで広い分野で切れの良い鑑定と贋作の場合でも依頼者への「思い出の品です。大事にして下さい」などの優しいフォローで有名な中島先生ですが、駆け出しのころに、まんまと騙されたことがあるそうです。
中島先生を騙した悪い奴は誰かと思ったら、井伏鱒二の「珍品堂主人」のモデルとして有名な秦秀雄氏だそうです。秦秀雄氏は戦前、北大路魯山人と星ケ岡茶寮を営みましたが、結局喧嘩別れをして独自に目黒茶寮を運営したり、骨董に関しては青山二郎、小林秀雄などと交流があり、「目利き」と言われていた人です。乾山や仁清など有名な作品は9割以上はニセモノですから、物を見なくても「ダメだね」と言っていれば9割以上の確率で当たることになります。しかし、その9割の中に混じっている目の利かない人には分からない「ホンモノ」を見出すのが秦秀雄氏だと言われていました。
知人とともに秦氏の家を訪れた中島先生は、帰り際に玄関脇の部屋の襖が10センチほど開いており、そこに当時中島先生が欲しくて欲しくてたまらないと思っていた「薩摩切子」らしき器が見えました。友人と一度は帰った中島先生ですが、その日のうちに一人で秦氏の家を訪れます。
そして、百万円を払って手に入れた念願の「薩摩切子」ですが、ヨーロッパ帰りの友人の店の一隅に自分の買ったものと同じ「薩摩切子」が飾ってあるのを見つけてショックを受けました。友人に聞くとそれはフランスの香水瓶で値段は一万七千円だということでした。
つまり古狸である秦氏に、駆け出しの中島先生がまんまと嵌められて騙されたということです。しかし、当時は業者の間での取引では騙される方が悪い、目が利かないヤツが騙されるという不文律がありましたので、中島先生も秦氏にキャンセルすることはせず、「あのときの百万円の痛みが、今日の自分を作ったと思っています」と書いています。
その時の「薩摩切子」は、どうしたかというと地方のオークションで同業者に20万円で投げ売りしたとのことです。私的には、この記載はとてもショックでした。なぜかというと、中島先生がそれ以前に書いていた「鑑定の鉄人」で、
その薩摩切子の瓶は多摩川大橋の上までもっていって、川のなかに叩きこんでしまいました。ちきしょう、ってなもんです。その代わりにO君からそのフランスの香水瓶を買いました。自分へのいましめのメモリアルとして。 「鑑定の鉄人」(P75~76) |
と書いてあるのを読んで非常に感激したからです。「さすが中島先生だ! 普通なら捨てたりしないで売り抜けるよな… やっぱり大物は違うよな...」とずっと思っていたからです。そして、中島先生の本はほとんど読み、出ているTVは必ず見るような完全な私淑状態でした。ですので、「ニセモノ師たち」 を読んだ時のショックは言葉では言えないほどでした。(笑)
まあ、今考えると裏読みもせずに本に書いてあることをまともに信じていた純粋と言えば純粋ですが、まあおバカな自分を笑って冷静に見られるようになりました。(^^)
美術業界、特に骨董業界では自分で勉強せずに書かれたものや聞いたことをそのまま信じたりすると、きっと痛い目にあうのでしょうね。それ以来、中島先生への崇拝も解けて冷静に見られるようになりました。
たとえば、この本に書いてある「佐野乾山」に関する記述です。
しかし私はそれを一瞥して、真贋は別としてなんて騒々しい乾山なのだろうかと思いました。乾山はああいうものではない。もっと華やかでありながら、その後には、なにか枯淡の精神が流れているように思っていたからです。(中略) むろん骨董界のほとんどの人たちは、佐野乾山が「腹に入らない」(納得がいかない)ということで取り扱う人は少なかったようですが。しかし、その決着はいまだについていません。まあ、つけないほうが幸せなんでしょうね。歴史にお任せしましょう。 「ニセモノ師たち」(P259~260) |
中島先生は先代から乾山に関して学んだのだと思いますが、結局「乾山とはこういうものだ」というような捉え方しかされていないようです。昭和30年代当時の乾山の本を見ると、現在では真作と認められないような作品が多く掲載されており、乾山の作品そのものの研究も十分ではなかったと感じます。
さて、佐野乾山事件当時、乾山の真贋を判定できる目利きは誰だったでしょうか? 現在なら中島先生と言うところですが、その当時は、骨董の世界に入ったばかりで上に書いた秦秀雄氏に騙される前ですので、残念ながら違うと思います。じゃあ、誰が目利きだったのかと言うと、やはり佐野乾山を認めた森川勇氏、勘一郎氏(如春庵)親子、バーナード・リーチ氏などを上げざるを得ないでしょう。
最近の発掘調査の研究では、乾山が製作した陶器の領域は以前と比べてかなり広いことが分かってきています。50年前の佐野乾山事件当時に考えていた「乾山とはこういうものだ」という狭い領域の中では判断はできないように思います。
現在の目利きである中島先生が、陶磁界のしがらみを離れて佐野乾山の作品をどう見るかに関してはとても興味がありますね。
また、「決着をつけない方が幸せなんでしょうね」というのも、不思議な言い方です。現在、佐野乾山の真贋は明確にされていませんが、業界では完全な「贋作」扱いです。このような状況で、そのままの方が幸せなのは誰なのでしょうか?
少なくとも佐野乾山の所有者でないことは確かですね。
ちなみに、中島先生を騙した秦秀雄氏は佐野乾山は真作であるとの立場でした。
このブログの目次です。 http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-1
純粋、そうですよね〜
疑うことを前提にってちょっと悲しいですよね。
by mo_co (2011-03-27 23:32)
mo_co さん
いつもNice! & コメントありがとうございます。
本を書く人は、基本的に自分に都合の悪いことは書かないというのは、普通のことであると思いますので注意が必要ですね。
by Simple (2011-03-27 23:55)
TBM さん
Nice! ありがとうございます。
ホワイティング氏の野茂の本、おもしろそうですね。
by Simple (2011-03-30 21:18)