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1993年WGP250 王者の原田哲也は最高だ! [モータースポーツ]

以前書きましたように、1980年代、私はモータースポーツにはまっていました。
生沢徹のi&i レーシングの中島悟が出場していた国内では最高峰のF2レースやGCを追いかけて、鈴鹿、富士までレースを見に行ったものです。鈴鹿に行く場合は、東京駅夜中の12時過ぎに出る大垣行きの夜行列車にのって行きましたが、夜中にもかかわらずかなり多くの人がホームに並んでいて驚いたものです。
F2レースで一番印象に残っているのが、1982年の鈴鹿の最終戦です。JPSの黒にゴールドの文字が最高にカッコよかった中島悟が、大雨の中、のちにF1ドライバーになるステファン・ヨハンソン、テイエリー・ブーツエンをぶっちぎって優勝した試合です。あの時の中島悟は本当にカッコよかったです。ちなみに、この最終戦の最終コーナーで大事故が起こったため、83年からシケインが作られました。今考えると、シケインがない時はかなりの下りである最終コーナーをスロットル全開で回っていたのですから、とても危険でしたね。

FS.JPGそして、そんな私がバイクのレースに目覚めたのは...1983年の秋に、フレディー・スペンサーが来日して鈴鹿の国内の最終戦に招待選手として出場し、その走りを見たことがきっかけです。(フレディーは、最年少(20歳)でその年の500CCクラスワールドチャンピオンになりました。)
フレディーの走りは強烈でした。長身の体をコーナー毎にバイクから大きくずらし、膝をこすりながらコーナリングしていました。しかも、立ち上がりはほとんどドリフト状態でブラックマークを残しながら立ちあがっていきます。聞くところによると、後輪がすべった場合でも、膝でマシンを起こして何事もなかったように走っていくこともあったとのことです。
私は、フレディーの走りを見て、素人ながら「何てナチュラルなライディングなんだろう」と思いました。コーナーでマシンを倒してコーナリングしている時に、後輪が滑ってもマシンがブレても力みのない上体と下半身で修正して頭は微動だにせずにまっすぐコーナーの先を見ているのです。私はフレディーのコーナリングを見ていて、忍者が裸馬にまたがり、相手の弓矢をかわすためにヒラリヒラリと馬の横腹にへばり付くの思いだしました。(笑)
これは、明らかに当時の日本の選手のコーナリングとは違った次元のものでした。

フレディーは、子供の頃から滑りやすいダートなどのトラックでバイクを乗り回していたそうです。それを何かの本で読んでフレディーのライディングのナチュラルさの理由は理解できましたが、「日本の選手が追いつくには10年以上かかるな~」と思ったものでした。当時、500CCクラスには、フレディー・スペンサー、ケニー・ロバーツと同等に走っていた選手に片山敬済(1983年ランキング5位、1977年350CCチャンピオン)がいましたが、ケガのためそれ以降の活躍はありませんでした。

それ以降、たくさんの日本人選手がWGPに挑戦しましたが、ワールドチャンピオンを狙える選手は現れませんでした。WGPで使用されているバイクはホンダ、ヤマハ、カワサキとほとんどが日本メーカーのバイクです。そのメーカーのワークスチームには最高のマシンが供給されているにもかかわらず、そのワークスチームに入っても日本人ライダーが活躍できない状況には、とても残念な気持ちになったものでした。(これは、当時F1でも同じでしたが...)

そんなあきらめムードの中、たまたま見ていたTVのGP250のレースにくぎ付けになりました。GP250参戦1年目の原田哲也が、「ケニー・ロバーツの秘蔵っ子」と言われていたジョン・コシンスキー(1990年GP250チャンピオン)、ロリス・カピロッシ(1990年、1991年の125CCチャンピオン)、マックス・ビアッジ(1994年から4年連続GP250CCチャンピオン)などと互角以上に戦い、そしてみごとに勝ってしまったのです。


その原田哲也のライディングはとても「ナチュラル」なものでした。調べてみると原田選手は、青木三兄弟、ノリック(故阿部典史)、故加藤大治郎などと同じように、子供の頃からポケバイ、ミニバイクのレースをこなしてきた世代だったのです。奇しくもフレディーの衝撃から丁度10年です。
その意味でこのレースは、フレディー・スペンサーのような環境で育った日本人選手が世界にデビューした歴史的なレースと言えるかも知れません。(ちょっと大げさか?)
結局この年、原田選手は世界GPデビューイヤーで見事チャンピオンを決めました。

1993年、最終戦の劇的勝利でチャンピオンを獲得した原田選手ですが、1994年はケガで振るわず、1995年、1996年はマシンの性能が良くなく、マックス・ビアッジの乗るアプリリアに3年連続チャンピオンを奪われてしまいます。原田選手の乗るヤマハのマシンはコーナーでは速くても、直線で圧倒的に速いアプリリアに勝てない状況が続きます。
そして、1997年に原田選手はヤマハからイタリアのアプリリアワークスに移籍します。イタリアのメーカーが3年連続チャンピオンの「イタリアの英雄」マックス・ビアッジを放出して原田選手を獲得したことには大きな意味があります。日本人ライダーは、ホンダやヤマハという日本メーカーのワークスライダーか、その影響下にあるプライベートチームに所属するのが当たり前でした。これまで実力が認められて日本メーカー以外のワークスチームからオファーされて移籍した日本人選手は原田選手だけだと思います。
原田選手のライディングは、ビアッジやドゥーハンのように先行逃げ切りではなく、相手の出かたを見て、最終のゴールまでの戦略を練るというタイプですので、ラスト3周くらいまではトップに立つことはあまりありません。ちょっとしたスキを見つけて最後の最後で勝つというスタイルが、見ている方にとってはたまらない面白さがあります。

1997年の象徴的なレースを見てください。4台のトップグループの中で最後の最後に勝利を獲得します。これは原田選手らしさが出ている面白いレースですので、ぜひ見て欲しいです。
http://www.youtube.com/watch?v=Ad1IjwkGKEQ&feature=related
原田選手のマシンの横に「レーシング」と日本語で書いてありますが、これはその前のレースで優勝した時にアプリリアの社長が大喜びして、原田選手へのプレゼントということで急きょ付けたそうです。原田選手は「カッコ悪いのでローマ字の方がいい」と言っていたそうですが...。(笑) しかも、「レーシング」ではなく「レーシン」となっていたそうで、「ゲ」の右側の線をカッターで削ったそうです。(^^)

これはあまり思い出したくもない1998年の映像ですが、カピロッシのダーティーさを忘れてはいけないと思います。最終コーナーを抜ければ原田選手が2回目のチャンピオンに輝いていたはずだったのですが...。
シリーズ最終戦の最終ラップ、原田選手とカピロッシの先にゴールした方がチャンピオンとなる緊迫した状況の最終コーナーで...。
https://www.youtube.com/watch?v=Ui0_UEDdfOc&t=185s

今では、WGPの日本人チャンピオンも珍しくなくなりましたが、私にとって原田哲也は忘れることができない偉大なスターです!

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Simple

TBM さん

いつもNice! ありがとうございます。
井上卓、知りませんでした。
いろいろな世界がありますね。
by Simple (2011-06-26 08:44) 

Simple

RONRON さん

いつもNice! ありがとうございます。
最近は暑くてたまりませんね。

by Simple (2011-06-27 00:23) 

Simple

mo_co さん

いつもNice! ありがとうございます。
息子さんたち、かっこいいですね。
最近の七五三の写真は腕を組むんですね。(^^)

by Simple (2011-06-27 00:27) 

Simple

tsworking さん

いつもNice! ありがとうございます。
塩分の取りすぎは本当ですね。
私も濃い味が好きなので気を付けます。

by Simple (2011-06-27 22:52) 

Simple

タッチおじさん さん

Nice! ありがとうございます。
4輪レースも良いですが、2輪のレースも面白いですよ。
by Simple (2012-01-22 22:35) 

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