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パリで600億円を蕩尽した男 「「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代」 村上 紀史郎著を読む [社会]


「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代


薩摩治郎八ってご存知でしょうか?
最近の方は、あまり知らないと思います。私も落合先生の本で初めて知りました。
薩摩治郎八の略歴を「朝日クロニクル週間20世紀の”ぜいたくの100年”」から抜き出してみます。

パリ社交界の寵児
薩摩治郎八はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛を蓄えた財産を使い果たした。薩摩治兵衛は近江の貧農の出であったが、横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれた。治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていた。
治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から1万円(今の価値でいうとおおよそ1億円位か)の仕送りを受けて車と女遊びに熱中した。大学など結局はどうでもよくなり、費用が要ればいくらでも追加の送金があった。当時のサラリーマンの月給は30円ぐらいである。
やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、底が抜けたように金を使って社交界の名士になった。画家の藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目された。

さらに付けくわえると、治郎八は、会津松平家のお姫様である千代と結婚してパリの社交界を闊歩しました。奥さんの千代は、フランスのファッション雑誌にも載るほどの美貌の持ち主でした。治郎八は、パリで今の貨幣価値で600億円にものぼるお金を蕩尽しつくし、戦後ほとんど一文無しで帰国してきました。
何とも豪快で、潔い一生のように見えますね。

この本は、この薩摩治郎八に関して残されている資料を調査し、コナン・ドイルやアラビアのロレンスとの会見などの伝説を含めて、これまで知られている治郎八の一生を再検証した労作です。著者の村上紀史郎氏は、1947年生まれ、「TBS調査情報」の編集を経て、現在はフリーランスの編集者です。文学、美術、建築、映画、ワイン、料理などの編集を手掛けているとのことです。

村上氏は、美術界には直接関わっていない方ですので、何のシガラミもなく落合莞爾先生や匠秀夫氏の吉薗周蔵関連の資料に関しても、「落合さんが採り上げている吉薗周蔵の佐伯関係の資料の真偽を確認できないので、こういう説があると紹介するにとどめたい」と書きつつも、きちんと紹介しています。この辺りは公平な判断だと思います。

治郎八がパリで活躍したのは、1920年代から1930年代にかけてです。この時代の日本は、好景気で多くの富豪(成金)たちが生れて、そしてその多くが大恐慌後によって没落していきました。その当時の状況に関する記載をみてみましょう。
第一次世界大戦中、<漁夫の利>を得た日本は、未曾有の好景気に沸いていた。なかでも造船業と海運業は濡れ手に粟の状況。交戦国の船はみな御用船となっているから、ロンドンに次ぐ船舶市場になっていた神戸に、船のチャーターや造船の注文が殺到したのである。例えば大戦前トン当りチャーター三円、船価五十円ほどだったのが、一九一七年にはチャーター内地三八円、ヨーロッパ四五円、船価八〇〇円から一〇〇〇円と高騰して船成金が続出した。

以前、ブログで紹介した国立西洋美術館にある松方コレクションを収集した松方幸次郎の川崎造船も、この好景気で大儲けし、多くの美術品を収集することができたのです。

1929年5月、薩摩治郎八が28歳の時にパリの南部のパリ国際大学都市に日本館が建築されますが、この建設資金を治郎八が出しました。(もちろん彼のお父さんが出したのですが) この日本館は外観は、日本の城を模した地上七階地下一階で、六十の客室を備えていました。そして、治朗八が援助していたパリの寵児であった藤田嗣治が書いた2枚の壁画が飾られていました。その開館式の夜は、パリ屈指の豪華ホテル、リッツで名士300人を招待した大晩餐会を開催し、現在の価格で1億円以上を使ったそうです。
この時期が、彼の絶頂期であったと言えるでしょう。その5カ月後にNYの株式市場で株の大暴落による世界恐慌が起こり、薩摩家もその波に飲み込まれてしまいました。

昭和の初期に、このような人物がパリを闊歩していたというのはとても興味深いです。

【蛇足】
この本のプロローグに面白い記載がありました。
「彼(治郎八)の死から二十年以上過ぎたある日、ぼくは同人誌の穴埋め記事のつもりで、治郎八と、パリで死んだ画家佐伯祐三との関係について書こうと思いたち、資料を調べ始めた。」
これまで公開されている資料では、治郎八と佐伯祐三は関わりが無かったということが定説となっていたはずですので、村上氏は落合先生の「天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実」を読んで治郎八と佐伯の関係に興味を持ったのだと思います。(治郎八が亡くなったのは、1976年で、落合先生の本の出版が1997年ですので、時期的にも整合します。)

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