SSブログ

聖徳太子は怨霊になった!「逆説の日本史」2 古代怨霊編 井沢元彦著 を読む [歴史の真実・陰謀論]


逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 (小学館文庫)井沢元彦氏の「逆説の日本史」2です。
井沢史観のポイントは「怨霊」ですので、この巻も興味深い内容が書かれています。

まずは、聖徳太子です。みなさん現在の天皇をイメージすると意外に思うかも知れませんが、天皇家は聖徳太子の昔から明治までは仏教徒でした。そして、明治以前は神社と寺は一体で、寺社と呼ばれていました。それが、明治になって国家神道が強化され、神仏分離が進められて現在の形になったのです。

1.聖徳太子
・聖徳太子はなぜ「聖徳」なのか? ⇒ 太子が偉大な人物だったからではない。また、なぜ有能な太子が天皇になれなかったのは不可解である。
・当時、「内官家」を新羅から取り戻すことが天皇家の宿願だったため、太子は、朝鮮半島に2回出兵しようとしたが失敗し新羅征伐は挫折する。(「内宮家」(うちつみやけ):任那あるいは伽耶のこと)
・遣隋使で随の煬帝に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々。」という国書を出したのは、当時の外交常識から言ってトンデモないことである。随と戦争になってもおかしくない内容。
・その当時、祖先を祀るものがいなくなった霊は祟りをなす、という考えがあった。太子の子孫は息子の山背大兄王の時に、孫もふくめて皆殺しにされており、太子の霊を祀る子孫はいなくなった。
聖徳太子は怨霊になった
聖徳太子一族を滅ぼした蘇我一族も中大兄皇子に滅ばされた。当時の人は、これは太子の祟りと考えたであろう。
「聖徳」の諡号は、怨霊となった証拠である

【諡号とは】「後醍醐天皇」、「推古天皇」などの「後醍醐」や「推古」などは諡号と言われ、生前の人物や事跡を考慮して付けられます。ですので、生前に「後醍醐天皇」、「推古天皇」と呼ばれたわけではありません。つまり、聖徳太子は死後に怨霊となったと考えられるので、「聖徳」と付けられたということです。
井沢氏は、歴代の天皇で「」を諡号に使われている天皇は怨霊になったと考えています。(太子以降は6人しかいません)
孝徳天皇:大化の改新後即位するが、中大兄と遷都問題で対立して難波宮に置き去りにされる。孝徳帝の妻も中大兄について大和に行ってしまう。
称徳天皇:弓削道鏡を天皇にしようとして実現せずに亡くなった。
文徳天皇:最愛の妃の生んだ皇子を皇太子にできずに、無理やり藤原氏の娘の皇子を皇太子にさせられた上に若くして急死した。
崇徳天皇:保元の乱で敗れ、讃岐に島流しになり日本の大魔王となる。「皇を取って民となし、民を皇となす」と呪い、平家・源氏の武家政権を誕生させた。
安徳天皇:平家一門が壇ノ浦で滅亡する時に、二位の尼に抱かれて海へ投身した。
順徳天皇:承久の乱で敗れ、佐渡に流され佐渡で死ぬ。

2.天智天皇、天武天皇
・天智天皇(中大兄皇子)は、663年に朝鮮半島の百済復興のために朝鮮半島に軍事介入し、唐・新羅軍と対決し大敗を喫した。(白村江の戦い)
⇒ 唐の日本侵攻を恐れ、長門や筑紫に守備兵を置き、博多に水城という防護壁と西日本の各地に城を築いた。また、内陸の大津に遷都を行った。
・天智天皇の陵の所在だけ、日本書紀に記載されていない。
・天武天皇は、天智天皇の弟ではない。
⇒ 日本書紀以外の書を見ると、兄であるはずの天智天皇のよりも天武天皇の方が年上になる。国史大辞典にも天武天皇が死んだ年齢の欄は空白になっている。
・年が上であるはずの天武が天智よりも早く天皇になれなかったのは、正統な後継者になる資格が無かったからである
⇒ 天武天皇は、自分の皇位の正統性を主張するために、「古事記」、「日本書紀」の編纂を命じた。 天武が即位した後に三種の神器の一つである草薙剣が天武に祟り、天武が病気になったことが日本書紀に記載されている。(天武は正統でないから祟った ⇒ 後に加筆された可能性あり)
・京都の泉涌寺は、仏教を信仰していた天皇の菩提寺であるが、天武以後称徳女帝までの8代7人の天皇の位牌がない。(天武系の天皇は皇統から外されている)
・「天智」の諡号は、殷の紂王(中国史上最悪の王と言われる)の身につけていた宝石の名前にちなんでいると考えられ、縁起の悪い名前である。
・さらに「天武」の諡号は、殷の紂王を殺した周の武王にちなんでいると考えられる。
⇒ 天智天皇は天武天皇に殺された。
・天智天皇の娘である持統天皇は、自ら即位して孫を皇位に付けることで、天武系の血統を排除して天智系の血統を守り抜いた。
「持統」の諡号は、「継体持統」にちなみ、皇統の断絶を防いだことを意味している

3.奈良の大仏は何故建立されて、そして捨てられたのか
・奈良の大仏は、創建当時世界最大の金銅仏であった。
・天皇の妃を提供していた藤原氏の陰謀で非藤原氏系である長屋王が無実の罪を着せられて自殺したが、その後、その犯人と思われる藤原四兄弟が相次いで病死し、聖武天皇には後継ぎの皇子が生れなかった。
⇒ 聖武、光明皇后ともに藤原氏の血を引いており、長屋王の祟りを恐れた。聖武天皇に男子が生れないのは長屋王の祟りであると考えた。
奈良の大仏は、長屋王の祟りを封じることを目的として造仏された。(怨霊を仏教の力で封じこめようとした)
・しかし、世界一の大仏を建立したにもかかわらず、聖武天皇に男子が生れなかった。
⇒ 奈良の大仏は役に立たなかったので、大仏を捨てて平安京に遷都した。

非常に興味深い内容ですね。古代史に興味がある方には必読の書です。

このブログの目次です。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-1
ブログランキングに参加しています。記事が気にいったらクリックをお願いします。
人気ブログランキングへ
nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0