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写楽は欄間彫りの「庄六」だ! 「歌川家の伝承が明かす『写楽の実像』を六代・豊国が検証した」 六代歌川豊国著を読む [美術]

syaraku.JPGこの本は、25年以上前に出された本ですが、ぜひ紹介したいと思っていました。

東洲斎写楽は、一年弱という短期間で約145点余の錦絵作品を出版した後、忽然として消えてしまったため、謎の絵師と言われています。その画風は、インパクトのある大首絵が特徴で、ドイツのクルトがその著書でレンブラントやベラスケスと並ぶ肖像画家と称賛したことで、日本でも注目を浴びることになりました。

その画力と黒雲母刷りというお金をかけた作品と短期間で消えてしまった事から、少し前までは、有名絵師などが名前を隠して写楽名で出版したのではないか、という「写楽別人説」が多くの人から出されていました。北斎、歌麿、豊国、艶鏡、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、山東京伝など、有名人であれば誰でも写楽という状況でした。(笑) 最近では、『増補浮世絵類考』で記載されていた阿波の能役者である斎藤十郎兵衛説が有力視されています。

今回紹介する本は、江戸時代に浮世絵の最大派閥(最盛期256名)を形成していた歌川豊国の「歌川派」の六代を継承した六代歌川豊国氏が歌川家に伝承していた写楽の実像を語ったものです。六代豊国氏の祖父からの系譜は、以下の通りです。
祖父:初代国鶴 文化元年(1804年)生まれ
実父:二代国鶴 嘉永5年(1852年)生まれ
本人:六代豊国 明治36年(1903年)生まれ

この本は、1988年に出版されましたので、この当時豊国氏は85歳でした。つまり、祖父の代まで遡ると約200年前を語ることができるということです。歌川家の写楽に関する伝承は、北斎がその情報ソースとのことです。
伝承:北斎初代国鶴国政(梅堂)・国鶴(二代)・豊国(五代) ⇒ 六代豊国(大正末期)

私の持論は、「真実は、知っている人に聞くのが一番」というものです。いくら詳細に調査して論理構築しても、真実を知っている人の一言には敵わないと思うからです。ですので、写楽別人説が跋扈していた25年以上前にこの本を読んで、「これが真実に近いのでは?」と写楽別人説に対する熱意が一気に醒めました。(^^)
(ただし、この六代豊国氏の家系に関して、疑惑を持たれていることもあるようです。)

初代豊国の後は養子であった豊重が二代目を継ぎますが、娘の「きん」が反対して初代の弟子である国貞を立て、一時期二代豊国を名乗りました。その後、国貞は三代豊国を名乗り豊重の甥の初代国鶴に四代豊国の襲名を約束しました。しかし、国貞の死後、二代国貞が無断で四代豊国を名乗り問題となります。
その後、三代国貞の弟子である梅堂国政が「四代豊国」を預かりとして、使用しなかったようです。その後、国鶴の長男官之介が二代国鶴、次男国松が五代豊国を継ぎ、六代豊国氏に繋がっています。

豊国氏は、浮世絵師の視点から写楽の謎に関するコメントを出しています。
・浮世絵師は芸術家ではなく職人。写楽だけでなく、他の絵師も謎だらけである。有名な喜多川歌麿にしても生年も出身も不詳。
・多くの絵師は枕絵、秘画などを描いて糊口をしのいでいた。そのため、写楽に秘画がないのは、プロの絵師でない可能性がある。
・下絵修行もなく、挿絵も描かず、上下関係もなく、いきなり「大本番」の黒雲母版大首絵の出版は、それ自体異常すぎる
・名人の極意は「北斎の捨て定規、写楽の輪」という歌川の伝承がある。
⇒ 写楽の輪は平面的な円ではなく立体的な円、つまり球形をしている、ということ。
⇒ 写楽が絵師ではなく、立体を相手にした彫り師であったから。

さて、いよいよ歌川に伝承した写楽の実像です。
・写楽は、本名を庄六(=写楽)という欄間の彫り師で、豊国、北斎と囲碁仲間だった。
・出身は摂津佃村。叔母が義太夫の三味線弾きで、庄六も竹本座に通い十返捨一九と知り合う。
・事情があり、江戸に下る。寛政9年7月7日に江戸佃島で没した。
・庄六の江戸行きは、26歳頃。佃島に済んだ庄六は欄間や水屋の彫刻で糊口をしのぐ。
・江戸で義父の下駄屋の甚助と出会い、下駄屋を手伝う。下駄屋では金融業や貸本も行う。
・庄六は神田錦町の店が与えられ、東国屋と名付け、歌舞伎の楽屋にも出入りする
・下駄屋甚兵衛は版元になることを考え、蔦屋を通じて馬琴、北斎、京伝を知った。
・一九は、庄六のスケッチを見て驚く。蔦屋が役者絵を出したいと一九に相談し、庄六を紹介する。
・蔦屋は庄六の絵を見て驚くが、これは売れないと言い、売れなかった分を引き取る条件を出し庄六も承諾する。(いわば自費出版のようなもの)
・庄六=写楽、佃島=東洲
・作業は、一九と蔦屋が共同で行い、最初は28枚を黒雲母版で出す。これを見て北斎が驚く。北斎はショックを受け、「あれは誰だ」と執拗に蔦屋を問い詰めた。同様に歌麿もショックを受ける
・さらにショックを受けたのが、豊国で、初代豊国の作画は、写楽の模倣に近い
・第一期は有名無名をとりそろえたもので、当然のことながら売れなかった。
・第二期は当時の流行役者のみを描く。(蔦屋の注文だろう)
・写楽の絵は売れなかった。役者絵というのは第一に役者が買う。ヒイキ先に配るからである。この役者がクレームを付けたのであるから始末が悪い。
・庄六は蔦屋との約束通り、売れ残りの絵を引き取り、自分の下駄屋でその絵をくじ引きで販売し、結構売れた。しかし、町奉行から「富籤の無許可販売」の罪で神田錦町の店「東国屋」は閉鎖となる
・寛政9年6月蔦屋が死亡。同年7月7日、庄六は物干しから落ちて死亡する。
・庄六のスケッチは、豊国が預かり熱心にその手法を学んだ。

さらに、庄六に関する驚きの情報があります。
写楽は足の指が六本あった。指六 ⇒ 庄六と名を付けられた。
⇒ 歌麿が写楽を意識して「不具のうつし絵」、「五体の不具」という言葉を使っている。
⇒ 広重の「東海道五十三次」の絵の登場人物の半数近くが六本指で描かれている。広重は、庄六のスケッチを参考にしていたのかも知れない。

如何でしょうか?
歌川家に、これだけ詳細な伝承があるのであれば、もう少し重視すべきだと思いますが、現状ではほとんど無視されているような状況です。私はそこにも真実の光が見えます。(笑)

写楽に関しては、以下もご覧ください。
・写楽は北斎か? 「写楽」問題は終わっていない 田中英道著を読む
・江戸美術考現学 浮世絵の―光と影  仁科又亮著 を読む
・美術評論家の瀬木慎一を悼む

このブログの目次です。
http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-1
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